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Seitosha Publishing

2016年12月のエントリー 一覧

第一番に捕虜になれ.jpg

副題:帝国日本と「めめしさ」
 
著者  清永 孝
2016年 12月20日発売
四六判、並製 244ページ
定価 1,600円+税
ジャンル[近代日本史]
 
紹介
「めめしさ」排除が導く帝国日本の終焉 
 
軍歌『戦友』の封印や、「捕虜になるなら切腹」など、昭和十年以降の日本は「めめしさ」を排除し、「雄々しさ」一辺倒に舵を切ってきた。
しかし、明治以降の日本において、両者は両輪の関係としてバランスを保ち続けてきたはずのものだった。
「反国家的」「軟弱」なものとして排除されながらも、生き残り続けてきた「めめしさ」の軌跡を、各時代のエピソードとともに追う。
 
鈴木邦男氏(元一水会顧問・評論家)推薦! ──「我が意を得たりで、一気に読みました」
「長い間、愛国運動をやってきたつもりだ。でも知らなかった。僕達の『愛し方』が間違っていたのだ。
『雄々しさ』だけを追い求め、『めめしさ』なんか忘れていた。でも昔はあったのだ。
弱者へのいたわり、自分と自国への謙虚な反省。それがなかったら、『愛』ではない。
もっと早く教えてほしかった! 」


目次
はじめに
第1章 「お国のためとは言いながら……」──明治時代の「雄々しさ」たち
第2章 「必ずしも遠き後とは……」──男と女の大正時代
第3章 大和魂と澤庵漬──「偉大な精神力」と「さまざまな差別」
第4章 雉が鳴いた!──昭和不況の「愛と死」
第5章 「お可哀そうに」──『戦友』の封印と帝国の終焉
おわりに

 
著者について
清永 孝(きよなが・たかし)
1929年熊本県生まれ。52年九州大学法学部卒業。
57年九州朝日放送入社、番組制作に携わる。89年退職、日本近代史の研究を開始する。
著書『裁かれる大正の女たち』(中公新書)、『良妻賢母の誕生』(ちくま新書)

 

まえがきより
 明治31年のことだ。
 日に日に遠ざかり薄らいでゆく徳川時代を懐かしむ人たちの、言わば、旧徳川家臣らの同窓会報みたいな月刊誌「旧幕府」に、奇妙な記事が掲載されている。
 「江戸の水」という化粧水の、おおよそ次のような宣伝文だ。

  「お顔の薬・江戸の水」
 江戸の水と申候は忠節の義理を調合して製法したる水なれば毎朝日光の方に向い二百余年の恩沢を思ひて顔に塗り又は一心に呑込むべし
  効能
 一 恩義を知らぬ顔にぬりてよし
 一 不義不忠の汚名を雪ぐによく落ること妙なり
 一 奸賊へへつらふ顔にぬりてよし
 薩摩芋、萩餅、土佐鰹節、広島海苔この外、京師又は中国、四国の産物は大方毒と知るべし。(「旧幕府」 明治31年11月)

 幕末、あるいは明治早々の騒然とした時代の渦の中、さっさと幕府を見限り、朝廷に味方した連中への憤懣が書き残した落書の一つだ。
 もちろん実際に「江戸の水」が売買されていたのではない。また薩摩、萩、土佐、広島は何れも倒幕運動の主役を演じた藩。京都、中国、四国は所謂、尊王攘夷の志士たちが輩出した地域であるため、恨みを込めて嫌味たっぷりの落書になったのだ。
 これを雑多な書類の中から見つけ出し「旧幕府」に掲載した人物も「あの時代は良かったなあ」と思っていたに違いあるまい。
 また、これを読み幕臣として過ごした日々の栄光を懐かしく、悲しく悔しく思い出して涙ぐむ人はいたであろう。
 だが「今どき遊び半分の記事を。何というめめしさだ」と、湧き上がる怒りを苦々しく握りつぶした人もいたはずだ。
何故なら、日清戦争で凱歌を挙げ、遼東半島を領有することになったものの、ロシアら三国の要求で同半島を返還せざるを得なかった口惜しさで、ロシアへの敵愾心が燃え滾っている時期だったからだ。

 益々剛健尚武の気象を養はざるべからず…女女敷くも恋愛を歌ふて花月の間に紅涙を注ぐが如き醜態の返す返すも今後深く戒むべき所なり。(「読売新聞」 明治37年2月19日)

 当時、国は貧しく、社会も貧困だった。それでも先進諸国と肩を並べなくてはならなかった。富国強兵は国家の悲願だった。
 そのため、絶対に必要だったのが剛健尚武の気象、つまり一切の私情を投げ捨て、当局の要請通りに犠牲的精神を発揮し、滅私奉公する「雄々しさ」だった。
 こうした立場からすれば、人は柔和や軟弱であってはならなかった。
 どれほどの無理矛盾があろうと、毅然として己を擲ち国の要請に殉ずるべきだった。
 徒に過去を懐かしみ、日常の暮らし向きへの不平不満を抱くなど、卑怯未練な「めめしさ」だった。
 「雄々しさ」を滅私奉公という国家意思の表れとすれば国家的論理。
 「めめしさ」は己の暮らしを大切にしたいという庶民の念願の表れであり、私的論理となろう。
 換言すれば「義理」と「人情」にもなろう。
 本来なら双方は矛盾し対立する存在だ。
 特に国家の存亡をかけた戦争中であれば「めめしさ」は「雄々しさ」と対立し、国家の意志に逆らうものとして排斥されて当然だろう。
 しかし、帝国は「めめしさ」のすべてを反国家的として徹底的に排除して明治、大正、昭和と帝国終焉の日まで、約80年の時を刻んだのではない。
 「雄々しさ」ばかりでなく「めめしさ」もまた必要であると理解していた時期があったのは事実だ。
 国民生活の隅から隅まで、息苦しいほど「滅私奉公であれ」と締め付けてはいなかった。「雄々しさ」一色に染め上げられた帝国ではなかった。「雄々しさ」に反していても「めめしさ」を容認していた。
 日露戦争の最中にあっても、双方は不即不離、つまり離れもくっつきもしない状態を保っていた。
 その限度はあったにせよ、戦時中であれ「めめしさ」が大手を振って歩ける「雄々しい」帝国だった。ある程度は人情が保護されている世間だった。
 本論で、いくつもの事例が物語ってくれる。
 この状態は、時代につれ微妙に変化しながらも、ある時期までは確実に続いていたことは否定できない。
 何故なのだろう。
 帝国の生活環境はいつの時代も概ね悪く、社会的な力や富は偏在し、特に女性は生活のすべての面で重苦しい毎日を強いられていた。
 更に過労、栄養不良、疫病蔓延など社会環境が劣悪で、平均寿命は50年にも満たない状況だった。昭和10年の調査(東京朝日新聞)では男性44・8歳、女性46・5歳となっている。
 自然災害、疫病流行、そして戦争。いつ訪れるか分からぬ死。
 明日も元気でいたい。死にたくないという「生の欲望」「死の恐怖」は誰しも同じであったろう。
 妥協の余地もないほど激しく対立している「雄々しさ」「めめしさ」という異なる立場にあっても、それぞれの奥底には「生の欲望」「死の恐怖」が潜んでいて、それが絆となって双方が対立しながらも理解し合い、肩を並べる不即不離の状況を作り上げていたのではなかろうか。
 個人の場合にしても、寿命が自分の思う通りにならない、共通する口惜しさ悲しさが、人と人との気持ちを結び付け、他人を労わる思いやりや敬虔さともなったのではなかろうか。
 人は、それぞれの胸底を地下水脈のように流れている「雄々しさ」「めめしさ」の片方だけを偏重するのではなく、双方を恰も縦横の糸のようにバランス良く紡ぎ合わせて、それぞれの心模様を織り上げ、義理と人情とで程よく染め上がった、和やかな世間を醸し出していたのであろう。
 だからこそ「生の欲望」「死の恐怖」の何れをも無視することのない、人間的で豊饒な時代精神が育っていたとは言えないだろうか。

 義理と人情とは人生を織りなす経緯である…日本の過去現在は余りに義理主義に偏している。人情を疎んじ過ぎてゐる。義理と云ふものが人情の反対に存在するものではなく…人情を偽るのではなく…人情の誠が義理の本当…万民安全の秘訣である。
 (「京都日出新聞」 大正2年5月19日) 

 程よい義理と人情とが人生を織り上げている。人情を無造作に押し潰す義理であってはならない。人情の誠を大切にする義理こそ、本当の義理だ、と訴えている社説だ。
 ただ、しょせんは滅私奉公を旗印にする帝国日本でもあった。
 国際関係や社会状況が厳しくなるにつれ、義理と人情のバランスは崩れて行く。
 つまり、公的な論理が人情を左右する風潮が強まり「雄々しさ」と「めめしさ」との、不即不離の状態は次第に薄らいでゆく。
 それは多くの人たちの「めめしさ」が卑怯、軟弱、利己的で反国家的な罪悪として、徹底的に排除されることだった。
 両者がこのように、はっきりと善悪に分別されてしまった時期が何時なのか、その特定はできない。
 だが一つの出来事が一応の指標とはなろう。
 昭和12年秋。日露戦争以来、国民に愛唱され続けていた『戦友』を、「ある筋」が「めめしい」と批判し、歌うべからずと公的に封印してしまったことだ。

 三十年前の軍歌復活 「戦友」はご法度 (「東京朝日新聞」 昭和12年9月28日)

 つまり『戦友』の封印は「めめしさ」の封印だ。
 「雄々しさ」と「めめしさ」とははっきりと峻別され、「生の欲望」も「死の恐怖」も非国民の感傷になってしまったのだ。
 しかも、それはまた国際的非難には耳を貸さず、中国各地を砲火で覆っていた帝国が、やがては世界大戦の導火線となる支那事変の底なし沼に第一歩を踏み込んだ年でもあり、国民生活が「雄々しさ」の囲いの中に、次第に閉じ込められてゆく、その始まりでもあったとも言えるであろう。
 ところが、多くの国民が例え呟くようなか細い声であったとしても、帝国の最後の日まで『戦友』を歌い続け、懸命に「めめしさ」を抱き続けていた事実を否定は出来まい。
 「雄々しさ」独善の戦時中であっても、一日でも一時でも、皆で仲良く暮らしたいという「めめしさ」を手放すことがどうしても出来なかったのだ。
 もしかしたら、対立する「雄々しさ」と「めめしさ」は長い日本歴史の流れに揉まれながら、何時からともなく自然に生まれ育ってきた、「日本人らしさ」の表と裏と言えるのかもしれない。
 だからこそ「めめしさ」は、ややもすれば独善、傲慢、粗暴になりがちだった「雄々しさ」の醜い部分を映し出し、彼を諌め窘める姿見の役を果たすこともできていた。
 つまり、それまでの帝国日本丸は右舷の「雄々しさ」、左舷の「めめしさ」とを操って、世界の荒海を辛うじてバランス良く航海していた。
 だが、『戦友』の封印以来、帝国日本丸はバランスを失くし右舷に傾き始め、やがて悲惨な終焉を迎えるのだ。
 このように曲折した「めめしさ」の足跡は何を物語っているのだろう。
 次第に傾き始めた帝国日本丸の中で、先人たちは何を思い、何を憂い、何を希望の杖にしていたのだろう。
 そんな彼らの懸命な生死を、本書は「めめしさ」に纏わる挿話を通して振り返っている。
 だがそれは社会の片隅に蹲り、もがき苦しんでいる人々の血と涙と汗を踏み台にした帝国の栄光を、殊更にあげつらうためではない。
 激変した時代、無理に無理を重ね我慢辛抱を繰り返していたものの、遂に時代に押し潰されてしまった先人たちの無念さに、少しでも近づきたいためだ。
 「めめしさ」が帝国に不可欠の存在から、反国家的として排除されていった足跡の痛ましさ、それは己を制御する手綱を失くしていった「雄々しさ」の悲惨さであり、帝国日本の悲劇とも言えるはずだ。
 それを学び後世に伝えることが、我々に与えられた歴史的課題ではあるまいか。
 では現在の私たちにとっての「めめしさ」とは何だろう。帝国の話題を探し出すための索引に過ぎないのだろうか。
 かつての幕臣たちは徳川時代を懐かしむあまり「江戸の水」を幻想した。
 だが私たちの「めめしさ」は決して幻想ではない。
 私たちは「めめしさ」を単に、在りし日を偲ぶための「江戸の水」にしてはならない。
 何故なら、そこには激変した帝国の時代、遂に「雄々しさ」独善の時流に無残に押し潰されてしまった先人たちの悲しさ、口惜しさ、無念さなど老若男女の「めめしい」声がひしめいているからだ。
 また、その中から流れてくる差別、迫害、憫笑などに晒された異民族の人たちの怒り、嘆き、悲哀、恨みなどなどの訴えも聞きもらしてはならない。
 かつての「雄々しさ」の華々しい、滅私奉公ぶりだけに陶酔してはなるまい。
 当時をひたむきに生きた人々が残した様々な「めめしさ」を振り返り、伝えたかったに違いない彼らの思いに少しでも近づきたい。
 日露戦後の投書にあった文言「第一番に捕虜になれ」を表題にしているのもそのためだ。
 現在、「雄々しさ」を上手に操って賑やかな拍手の中を傲然と航行している日本丸が、このまま胸を張って、混沌とした世界の海を無事に航行できるほど、我々が賢くも強くもないことをも、かつての「めめしさ」たちは教えてくれるのではなかろうか。